気ままライフ@カンボジア

31歳。大切な人を守りながらも好きな時好きな場所へ自由に生きること。

「夢が見つからない」という人に読んでほしい。本気のスイッチを入れるたった1つの本当に大切なこと。

 

母子家庭で育った僕が父親というものになって気づいた一つの事実

 
 
2018年1月20日、午前8:53。
 
僕はおそらく人生で一番感動する瞬間に出会った。
 
 
 
 
あの時の
 
「オンギャーー!!」
 
という声は一生忘れないだろう。
 
 
そして、あの瞬間感じた事は決して自分1人で生きていては知ることのできないものだった。
 
 
"感謝と覚悟
 
一言で言えば僕の場合はそれだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
愛知県のとある町で僕は生まれ育ってきた。
 
 
はっきりと覚えている一番古い記憶と言えば、幼稚園の時の運動会。
 
年長組だった僕は、誰よりも鉄棒が得意で連続逆上がりをしていた。
そして沢山の拍手と母親の「すごいじゃん!よくやった!」という褒めてくれた一声と、笑顔、頭を撫でてくれたあの暖かさをすごく覚えている。
 
 
断片的な記憶は他にもあるが、しっかりと全て覚えている一番古い記憶。
 
きっと他にも沢山あるんだろうけれど、やっぱり5歳前の記憶が今ひとつ思い出さない。
 
 
ウルトラマン仮面ライダーがとにかく大好きで勉強はきらい。そのかわり運動することだけは大好きだった。
 
 
家には当時、お父さんとお母さん。おじいちゃんとおばあちゃん、ひいじいちゃんにひいおばあちゃん。そして弟が1人。
 
僕が小さい頃の記憶で"家族"を思い出すと、この構図になる。
 
その後、弟がもう1人生まれ、男3人兄弟となる。
 
 
その後、母子家庭となるのだが、それまではどこにでもあるような、普通の家庭だったと思う。(うっすらとした記憶だけれど。)
 
けれど、とっても家族が大好きだったのは間違いない。
 
 
 
 
 
 

今日から我が家には父親はいません宣言が発令

 
僕が小学校5年生の頃だっただろうか?急にその日はやってきた。
 
 
 
朝起きると母親はこう言ってきたのだ。
 
「今日から我が家には父親はいません」
 
 
 
・・・。
 
小学生ながら言葉を失ったのを覚えている。
 
 
「・・離婚ってこと?」
 
小学生ながら、その言葉を知っていた僕は母親に訪ねた。
 
 
 
すると母親は、「そう。」
 
真っすぐ目を見ながらそう伝えてきた。
 
 
小学校への登校中、弟と歩いていた。が、涙が出てしょうがなかった。
 
弟は当時小学1年生。"離婚”なんて言葉すら知らない。
 
 
 
それからというもの僕のうちでは父親がいないという新しい”当たり前”が始まった。
 
 
 
 
「ねぇ、お父さんどこ行ったの?今日も帰ってこないの?」
 
弟二人は何も知らずに無邪気にそんなことをたまに聞く。
 
すると母親は、「誰かさんはもう帰ってこないよ」。
“お父さん"という言葉をうちの中から無くし、”誰かさん"と呼んでいた。
 
 
 
運動会、授業参観、学芸会、サッカーの試合。
そこに一度として父親の姿はなかった。
 
小さくても長男。
お母さんを守らなきゃと思っていた僕は、それから一度もお父さんの話を出さなかった。
そして寂しくならないように記憶からも無くそう無くそうとしているうちに、顔も声も、遊んだ思い出も本当に何もかも思い出せなくなった。
 
 
弟二人も父親の声も顔も名前も知らない。
 
家族にお父さんがいない。でもそれがうちの当たり前だった。
 
 
 
片親だから不幸せ?辛さと幸せは隣り合わせということ
 
 
父親がいないことで、悲しいことや辛いことはもちろんあった。
 
なんたって男三人兄弟だ。
家の中での、おままごとなんかより外で思いっきり遊びたいし、お出かけもしたかったから。。
 
 
けれどそんな悲しいことや辛かったことが、これと言った理由はよく覚えていないが何かのタイミングで夢に変わった。
 
“かっこいい父親になりたい” 
 
中学生の頃にはそう思っていた。
 
 
 
 
 
「夢は見たものからしか選ぶことができない」
 
先生も、おもちゃ屋さんも、お菓子屋さんも、サッカー選手も見たことがあって知っているから初めてなりたいと思うもの。だからたくさんのものを見ると夢は自然にうまれていく。
 
そんな話を僕が尊敬している経営者の方が言っていた。
 
 
 
中学生にもなると、世の中にあるいろんな職業をたくさん見ているはずなのにそれでも僕はかっこいいお父さんになりたかった。
 
 
学校行事や友達の家に行った時に聞く話、サッカーや少林寺拳法などの習い事などあらゆる時に”家族”というものを観察していた。
 
 
・子供の行事に来てくれる父親
・旅行に連れてってくれる父親
・休みに一緒にサッカーをしてくれる父親
・母親に手を出さない父親
 
 
どんどんとカッコいい父親像リストが溜まって行った。
 
 
そしてその夢を叶えるには、サラリーマンじゃなれないと思った僕は、中学二年生の時には就職しない生き方をすると決めていた。雇われない生き方をする。あと、ネクタイを閉めなくてもいい服装。
 
中学・高校生で見つけた僕の進路の答えがそれだった。
 
 
 
そして、そんな家庭環境のおかげで僕はボランティアというものにすごく興味を持っていた。
 
日本の児童養護施設や、NPO団体の活動なんかにも参加させていただいていた。
 
世界の貧しいと言われる国を訪れるようになり、気づいた時にはカンボジアに移り住んで孤児院の運営をやっているから自分んでも想像もしなかった未来に来ていてビックリだ。
 

 

そして、あの日、あの鳴き声が聞こえた瞬間に今までの全ての出来事に感謝できた。

 

有り難う。有り難う。

何回も言った。

 

 

自分の命であるけれど、頂いた命。
 
 
僕は昔のどうでもいいことばかり覚えている。
 
誰が僕の悪口を言っていた。
誰に仲間はずれにされた。
バカにされた。
 
 
そんなことはたくさん覚えているのに本当に大切な事を僕は覚えていなかった。
 
自分の子供がそれを教えてくれた。
 
 
 
みんなにもこんなことはないだろうか?
 
好きなことがわからない。
好きなことをして生きて生きたい。
自由に生きたい。
自分を知りたい、探したい。
 
僕は、そんなことばかり思って、探していた。
 
 
けれど僕は本当に大切な事実を忘れていた。
 
 
好きな事を探したり
好きな事をして生きる
 
それってめちゃくちゃ素敵。
 
でもその前に、たとえ今、
好きな事を出来ていなかったとしても、
めちゃくちゃ辛かったとしても、
将来が不安でどうしようもなくても
自分がわからなくなってしまってても
 
今あるこの”命”をしっかり燃やして今日を生きなければいけないんだということ。
 
 
母親が何時間も痛みに耐える姿を目にして
気絶しそうになりながら痛いと叫び続ける声を聞いて
僕だけでなく、間違いなく僕らはこうやって命をかけて産んでもらった。
 
父親が、もしかしたらやりたくもない仕事を家族のためにして何が何でも助けると自分の生活のほとんどを子と母のためにと使ってくれたおかげで生まれたこの命。
 
 
 
そう考えると、僕は将来がどうとか、これからの生活がどうとかでなく、
 
”生きたい”と強く思えた。
 
生きてる間に、いっぱい経験したい。そう思えた。
 
 
 
 
 
みんなみんな不安はめちゃくちゃある。
 
 
夢なんてそうは簡単に見つからないかもしれない。
 
 
けれど、僕らの人生の始まりには、
 
痛みをこらえ、泣いて叫んで、産んでくれた母親がいる。父親がいる。
 
 
もしかしたら、両親が嫌いかもしれない。
絶縁しているかもしれない。
 
でも、それでも僕らが生まれた事実は変わらない。
 
 
 
僕だって、家族を捨てた父親は心のどこかでは嫌いだ。
 
でも、そのおかげで、自分の人生を考えられた。
人一倍、父親になる喜びを得れた。
 
 
だから今では100パーセント感謝している。
 
 
 
自分の人生にちょっとでも本気になってみる。
 
 
すると、きっと世界が変わると思う。